あたりまえをほめてあげたい
あたりまえのことをあたりまえにできる人にとって、あたりまえのことをあたりまえにできない人の気持ちはきっとわからないでしょう。
あたりまえのことができない人にとっては、あたりまえってなんであたりまえなのか、理解ができないか、そもそも理解する思考が備わっていない場合があります。
文字を文字として我々の脳は勝手に判断しそれを理解しますが、それがわからない人にとっては文字はただの「絵」であって、そこに何かを伝達する意図は発生しない。
ロゼッタストーンに刻まれた文字は、我々には全く意味がわらかないのとちょっと似ています。
声をきいて、声を「言葉」として我々の脳はいつしか判断するようになりますが、声を「音、音楽、ノイズ」としか判断できない人も実はいます。
ロシアのテレビ放送を見聞きしても、何もわからないのと部分的には似ています。
自分には「意思」があり、「意思」を伝えるための手段として「声」があり「言葉」があり「文字」がある。
そんなあたりまえのことを、あたりまえにはできない人に、そういうことがあるんだよと教えるのにはとっても苦労が必要です。
当然、気持ちを誰かに伝えるなんていうことを、本人は思いつきもしません。
生きとし生けるもの、人間は一人では生きてゆけません。自分以外の誰かとかかわらずして、生きてはゆけません。そこに、いかに「言葉」というものが大事かを今でも痛感します。
喃語からはじまり、パパ・ママ・アンパンマンなどの言葉が出てきて、そしてこちらの言うことを理解し、バイバイができるようになり、おしゃべりをしだす。
乳児健診をしていて、そんなあたりまえの成長ができているこどもたちに、「えらいね」「よかったね」ってたくさんほめてあげたいです。
親って、すぐ欲が出てきてレベルの高いことまで望んでしまいますが、あたりまえのことがあたりまえにできる「普通」であることへの喜びも必要です。
そしてこどもたちを成長させるのは、特別なことではなくても、当たり前にできたときにほめてあげることだと思います。
だって、親も、子育て頑張ってるの誰かに褒めてほしいでしょ。もちろん僕も、褒めらるの大好きです。誰も褒めてはくれませんが(笑)